奇形のクラゲ

実に実りの無い話

ジェリーフィッシュ・コーヒー

本日、当ブログの開設から一周年を迎えました。

精神患者の妄言により始まった奇形のクラゲも50000PVを達成し、世の人々が如何に暇であるかを思い知らされております。

輸入車ディーラーの待合室で無料のホットコーヒーを飲む程手持ち無沙汰であれば、今後も記事を更新してゆきたいと思います。

何卒、お付き合いください。

新春を憂う

明けましておめでとうございます。

皆様は新春をどうお過ごしでしょうか。

錆びた排水溝が如く御神酒を流し込まれた私の喉は焼け爛れ、文字通り春の暖かさを宿しております。

対照に寒空の下で吹く一筋の白煙は、'19年製ワンショットパイプからの年賀状でございます。

今の私が酩酊状態にあるのか、将又シラフなのか、判断の付かぬままお送りする記事ではありますが、どうかお付き合い頂ければと思います。

亥年は環境が一変した事もあり、私にとって激動の一年となりました。

左肺と肝機能の一部を失った人間にとって、正月というのは国家より付与された免罪符でありましょう。

死に急ぎと評されればそれ迄ですが、日々募る鬱憤は水溶性に非ず、アルコールによってのみ洗い流されるのです。

さて、酒瓶を両脇に抱える人でなしが憂うのは、他でもない今年を生きる私そのものであります。

年始のバーゲンセールで半額の札を下げられている共感という名の商品を手籠に投げ入れるつもりは端からございませんが、未だ鼠毛を執っていない人々のモットーに悪影響を及ぼす事が出来たらと考えております。

胡座の先に手を伸ばし墨を磨りながら視るのは、価値観の形成に関与する他者の喉仏を糸鋸て削ぐ初夢です。

依存という手軽なツールを用いて生き様を語る無頼の徒は、他の存在に理由を任せ真に己の価値を見出す事の出来ない哀れな子であります。

丑の背に乗りながら自らの脚で地を蹴っていると信じて止まない人間こそ、喉に餅詰まらせるべきなのです。

お年玉は、貰う立場より与える立場になってこそ、と考える所存であります。

新年のご挨拶としては少しばかり長くなりましたが、此にて。

新しい年が皆様にとって素敵な一年でありますように、なんつって。

無精髭に学ラン

架線を伝い西の都へと進んでおります。

頚椎に巻かれた紐蛇は社会の奴隷たる証であり、出張という肌寒さを夏用の背広で凌いでいるのです。

この私が社会人というフォーマットに収まろうとは、夢にも思いませんでした。

機械仕掛けの日々に“お前は誰か”と問うてしまうような気がして、時折星明かりが怖くなります。

大人になる日など本当はやって来ないのではないか。

そんな少年の理想は至極当たり前に打ち砕かれ、仕事に追われている訳です。

しかし、薄墨のカンバスに極彩色を咲かせているのは、旧友たちと過ごす時間そのものであります。

今でも連絡を取り合える友人がいるというのは、この上ない幸せなのだと身に染みて思います。

スーツを脱ぎ散らかし家を飛び出せば、私たちはいつだって子供の頃に戻れるのです。

酒を酌み交わし昔話に耽る無精髭の大人は、今でも心に学ランを着ているのでしょう。

居酒屋で中学の校歌を熱唱し出入り禁止になった日も、過去の喧嘩を掘り返しドライブ中の車内で殴り合った日も、あの頃と何一つ変わらない私たちがそこにいるのです。

ふと誰かが、“爺になってもお前らと一緒に酒を飲んでいたいな”などと言い出すものだから、皆適当な理由を付けて眼を擦ります。

随分と涙脆くなりました。

歳かな。

否、私たちはいつだって子供の頃に戻れるのです。

無精髭に学ラン─────

次は下駄でも履いて集まりましょうか。

 

 

 

 

 

液晶のゴースト

都心に向かう鈍行列車の中で、人々は皆5インチ大の液晶に無表情を反射させています。

いつからか意思はモニターを介して疎通されるようになり、意気は指先の動きで投合されるようになりました。

スマートフォンという掌サイズの文明の利器は、無数の娯楽を齎すと同時に、私たちから数多を奪いました。

本質において、人間は画面越しの相手を同じ人間と認識出来ません。

幸も不幸も瞬く間に消費される所詮は使い捨てのコンテンツに過ぎず、インターネットの世界では時に少女の自殺さえ、“アート”になり得るのです。

匿名性は人の匿名を引き剥がすスクレーパーへと変貌しました。

上がる炎にガマ油を投下する歪んだ正義は、悲しきかな人の嗜虐心を満たすのです。

テレビやラジオが人々の思想を形成していた時代がありました。

今や人の数だけ電波塔が存在します。

多様性はリテラシーを養う上で最も重要な要素でありますが、余りに自由な取捨選択の末都合の良い意見だけが手元に残り、より一方を向くようになりました。

私は時々、何が大切なのか分からなくなります。

近い未来、電脳が人々の意識を支配し、電子のパンケーキを食らう日がやってくるのではと、生身のシナプスが通う頭を抱えるのです。

私の癖毛が俯いた頭蓋を支える指に絡むうちは、せめて暖かいままであろうと思うばかりです。

ゴーストは身体に付随するが故、己たり得るのだと。

延命措置は遠慮致します。

 

 

 

毒物人間

何故か一定数、一緒にいると気を病んでしまう人種が存在します。

原因を辿れどそこに明確な根拠は存在せず、只々その人と共通の時間を浪費すると、心が擦り減るのです。

他者の心臓の鼓動を負値に陥れる程根の暗い人間ではなく、同時に底抜けに明るい訳でもない。

肩を寄せ合うと幸せが湧いて起こり、いざ別れれば行き場を失った感情が只管虚空へと歩き出す。

あいつは良い女だったとか、今も尚愛してるだとか、愛してたとか、あの時こうしていればとか、何か変わってたかとか、何も変わらなかったのか、とか。

都合の良い言い訳を探し、人は皆何かに依存することで、唯一自らの存在証明をし得るのです。

果たして人は、人を狂わせる程の価値を有するのでしょうか。

彼は、彼女は、貴方を朽ちさせる程愛らしいままを全うするでしょうか。

人は時折誰かに好きだと言われ抱き締められないとおかしくなってしまう、弱い生き物なのです。

人の精神を擦り減らすような人間は、良くも悪くも貴方にとって都合が良いのでしょう。

真に相思相愛であるのなら、若しくは只々貴方が盲目であり続けるのなら、何方かが独り頬を濡らすこともないのです。

いつまで気付いてない振りを続けるのか。

これは貴方への、私への、戒めであります。

今宵もまた痣色の錠剤を消化器官へと流し込み、夢に沈む振りをするのでしょうから。

 

北の大地より愛を込めて

運び屋を生業とする大先輩が先日綺麗な奥様との間に子供を授かりました。

結婚詐欺のつもりが情が移り、そのまま結婚に至ったという何とも幸せな馴れ初めであります。

この世に外道がまた一人増えた事を、大変喜ばしく思います。

この度は誠におめでとうございます。

今回はその先輩から過去に頂いた話を。

皆様はハチ・キュー・サンの仕事と聞いて、どのような物を思い浮かべるのでしょうか。

特殊詐欺や麻薬の売買から、強盗や殺人といった物騒な事柄までをご想像かと思います。

今のご時世、後者のような所謂過激派の影を見なくなりましたが、暴対法を初めとする警視庁及び各道府県警の皆様方の並々ならぬ努力の賜物かと、存ずる所で御座います。

エンコ詰めも流行らない昨今でありますから、単に時代なのではないかと言われたら、チョーク片手にバイト感覚で街を闊歩する婦警に礼を失する形となりますが。

さて、数多あるシノギの中からご紹介するのは鮭の密漁です。

鮭?そうあの鮭です。

極自然に皆様の食卓に並ぶ、鮭です。

私が言うのも白々しい話ですが、決して薬物等の隠語ではありません。

間の抜けた話に聞こえるやも知れませんが、これが意外と儲かるのです。

十月初旬に北海道のボロ小屋へ出向き、三ヶ月程泊まり込みで漁をします。

年が明ける頃にはビデオテープ三本厚の札束を下着の裏に貼り付け、再び飛行機の中から本土の景色を眺める事となります。

捕れた鮭が何処の誰の手に渡るのかは私の知ったことではありません。

知的好奇心は時として、顳顬に押し当てられたトカレフよりも派手な飛沫を上げます。

受験用の数学と似て、仕組みや理論は兎も角、“そうなるからそうなるのだ”と折り合いを付けるのも、貴方を長生きさせる秘訣やも知れません。

北の大地、人気の無い川の下流で鮭漁をする際、初めに聞かされる注意事項が、羆に気を付けろという物です。

普段ポリ公には呉々もという警告を受ける我々にとって、真っ先に気を付ける対象が羆というのは、血生臭くも最高のジョークであり、ジョークで終わらないのもまた、最高のジョークであります。

そもそも密漁をしている訳ですから、羆の爪に身体の前半分を削がれようとも、誰も見ていないという体のまま遺体が岸に放置されるのです。

幸い私は獰猛な野生生物に彼の乳房を食い破られる様を見ておりませんから、他人事と割り切り今日も気色の悪い笑みを浮かべながらウイスキーを喉奥に流し込む事が可能な訳であります。

更新頻度が落ちていた事もあり随分と突飛な話になりましたが、まだまだ皆様の知らない稼ぎ方があるというお話でした。

 

検死のマゾヒスト

日本では、年間約300人もの方がセルフSMで死亡しているという現実をご存知でしょうか。

アジアを代表する変態国家日本と言えど、この数字は大変由々しき事態です。

私は生粋のサディストでありますからセルフSMをする方の気持ちは分かり兼ねますが、マゾヒズムを抱えていながら自らを責めるサディズムを持ち合わせているという、本来背反である二面性を宿した人間へ、畏怖のような物を感じます。

さて本題に移りますが、セルフSMをして亡くなった方がセルフSMをしていたと証明する者は一体誰なのでしょうか。

私が巫山戯たパラドックス的理論を提唱しているかのように思えますが、至って大真面目です。

“セルフ”の名の通りその方は一人で性欲求を満たしていた最中に、首に掛けていたロープが絞まり、将又蝋燭の火が燃え移り、死に至ったという訳です。

言わば、誰もその瞬間を見ていない。

自殺と異なり、セルフSMによる死は事故として扱われます。

現場に残された数々のSMグッズは、捜査の方向性を決定するのに充分な証拠となり得るでしょう。

結論さえ出てしまえば本部は解散し、SMプレイ中に亡くなった可哀想な人として処理されます。

もしそれが、誰かに殺されていたとしたらどうでしょう。

人をセルフSMプレイ中の事故に見せかけて殺すなど、大層馬鹿げた話に聞こえるやもしれませんが、有り得ない話ではない。

私がもし人を殺すのであれば、足りない頭を270度捻り、決して捕まらない方法を考えます。

相手が私のように性癖を拗らせた人間であれば、真っ先にその線が浮かぶのも自然の摂理でありましょう。

私は年間亡くなる300人余りの中に、偽装殺人による被害者が含まれているのではないかと考えます。

私も私を殺すなら、麻縄で自由を奪い、尿道に無数の針を刺し、喉に女物の下着を詰め窒息させるでしょう。

これにて、セルフSM中に息絶えた哀れな私の死体が一つ出来上がります。

人から買う恨みは最小限にしましょう。

誰が誰に殺されても何ら可笑しくない時代です。

皆様、一人ご自宅でお過ごしの際はどうかお気を付けて。