あまりに忙しく、新年にブログを更新し忘れたまま今に至ります。
億劫によるものではあらんと。
ホントです。
みなさま、お元気でしょうか。
そろそろ更新しないと、なんだか天国より怒られそうで。
どうせ暇なら、脳梁の私と思考を共有しようでは。
多忙は不幸か。
もう何年も前のことで、多幸剤と称される脱法ドラッグを食らっていた時期がありました。
この世はまともに生きるにあまりに惨く、それでいてとても悲しい。
もやのかかる意識はハッピーそのものでした。
成分なんて考えたこともありませんから、誰がつくった何かも知らないまま血液となり私を通っていました。
ニューロンの本馬場を逆立ちして歩くに、きっと脳によくないものが含まれていたのでしょう。
萎縮した私の海馬には、楽しかった日々や大切だったことやもの、愛した人たちの笑顔しか存在しないのです。
刹那的な生き方をしていました。
レシートに砕いた藍の粉末を、父によく似た鼻から吸引し、母によく似たまなこが充血し。
明日、死んでもいいように。
ドラッグを辞め、生きようと決意した人が亡くなりました。
気づいていましたよ、多幸剤なんて嘘だって。
暇な私を照らす太陽が怖くてたまらない。
ドラッグを燃料に漕ぐ舟はなんだか虚しい。
シナプス間隙を往く私は酔うて呂律すらマワっていないのだから。
人はひとり思考を巡ら暇がふえるほど悩み病み、僻みそうしてまた悩む。
依るがやたら永いのは、人がみな考え生きているからです。
私は“よいことでないか”と、思ってしまうのです。
拝む神すらおらぬ虫たちでさえ生きることに一心で、それを本能と一緒くたにするなら人間だって々じでしょう。
太陽の下を生きる衆生は、みな生きるために生まれてきたのに。
私はなんだか生きるワケが欲しくて、好きでもない仕事をしています。
心憂いけど、その果て生きる理由まて思索する暇はないのです。
生きるって難しい、それでも生きてるって素晴らしい。
この処、人生について考えることが少なくなりました。
多忙は多幸剤でなかろうか。
死に方を考えるにはあまりに忙しい。
ポエムでないから句点を忘れない。
忙しさをワケにもう少し生きてみる。
どうか多忙が、私にとってあなたにとって多幸剤でありますように。