奇形のクラゲ

実に実りの無い話

アル中は歩く

2年半もの間、毎日欠かすことなく酒を飲んでいた男が禁酒をしました。

夏休みのラジオ体操すら皆勤賞を貰えなかった人間がどうしてこうも続くのか。

ラジオ体操には依存性がなく、アルコールにはそれがあるからです。

私の母は典型的なアル中で、生まれてこの方一度も酒を飲んでいないあの人を見たことがありません。

酒がなくなると、私は意味もなく折檻を受けました。

母と同じケロイド体質の膨れる傷を視て、これは虐待などではなく何かに溺れなければならないほど大人というのは哀しいのだと理解しました。

となり街の高校に進学してからは家に帰らなくなり、金銭などありませんから祖父の工場からシンナーを盗んではそれを売りラブホテルに泊まりました。

私の歯は溶け、愛した祖父の歯並びが綺麗であったことも忘れてしまったのです。

ある夜、歳下の女にホテルの冷蔵庫にある酒を飲もうと誘われました。

そんな気分ではないと断りましたがその実、私は怯えていたのでしょうか。

どこか母のようになってしまうことが怖くて仕方がなかったのです。

高校を卒業後、上京し更生保護施設に入りました。

偶然にも相部屋が同郷の人間で、私たちはすぐに打ち解けました。

寮則では酒類を持ち込めないのですが、その男はスウェットの内側に隠していたのです。

プラ製カップに安酒を注ぐと、私の心臓がいつもより鼓動するのを知られたくなくて、琥珀の液を勢いよく喉へと流しました。

不味いじゃないか。

こんなものを母が飲んでいたのかと想うと、あの人はやはり哀しいだけだったのだと。

強弱ボタンの壊れた扇風機を窓の外へ向け煙草を吸うと何故だか泣いてしまいました。

それでも、涙が頬をつたわないくらい皺々に笑っていました。

それからの私は、鳶職のアルバイトをして寮費を払い、余銭で飲み歩く生活を続けていました。

それまでの虚しさと決別するかのようで楽しかったのです。

それから、それから。

決して素行はよくありませんでしたが、防災訓練の班長を務めたこともあり、また桜の咲く季には寮を出ました。

仕事を変え、私は毎朝のように酒を浴び、疾うに母の顔など浮かばなくなっていたのです。

早朝、いつものように家へ帰ると私の手は震えていました。

躊躇いもなく戸棚にある酒に手を伸ばし、ようやく理解しました。

手遅れでした。

何かに溺れるというのはとても、とても楽なのです。

母がそうであったように、私の人生などどうでもよかったのですね。

明日には素敵なことがあるだろうと生きてみました。

疲れました。

大切な人が肝不全になりました。

入院した翌朝の便りからひと月が過ぎ、彼女が今どうしているのか。

ふと、私は2年半も続いてしまった日々を辞めてみたいとサンダルを履き街へと歩きました。

散った桜は雨に流され、排水溝に降る街灯に照らされていました。

枯れ木のような姿も、次の春にはまた満開の桜を咲かせるのでしょう。

世界は非常に非情で、そのくせ非情なまでに美しいのです。

やはり世界は、哀しくなどないのだと。

私は今、歩いています。

こんなブログを書いてみましたが、翌朝には酒を飲んでいるかも知れません。

依存症とはそういうものです。

2年半もの間、毎日欠かすことなく酒を飲んでいた男が禁酒をしました。

いつか辞められたらいいな、なんて都合のよいことを考えながら。

それでも、アル中は歩くのです。

アル中は歩く。